Inside of my head

音楽、映画、日々のことなど雑感

holy

2018/12/7、the Novembersの教会ライブ「HOLY」に行って来た。


一年の最後の月に、わたしはこのライブを観て価値観が変わった。

ライブに行くと決めたのは数ヶ月前のはずで、新譜を終えていなかったのでTODAY epを聞いたら非常に素晴らしく。

もちろんその音楽からも考えていたことだけれど、常々わたしは小林裕介さんは美しい、と思って生きていた。

顔貌も美しいけど、生き方、在り方が美しい、と。音楽としてノーベンバーズがどの程度好きかというと、実は作品にも拠るけれど、彼の美しさが好きでファンでいる部分も大きい。

あとは社会に対する違和感のようなもの、の感じ方が非常に近くて大好き。


彼の美しさはどこから来るのか 当然考えた。自分も出来ればそう生きたい。

そして考えるうちに、豊かさ という言葉に行き着いた。

ノーベンバーズのすごく好きな曲の一つ、meursaultの歌詞に

「聞いて 見て 歩いて 触れて 働いて 愛して 飾って 祈って」

という所がある。

働く、愛すと同格に飾るを持って来る、ここが小林くんは美しいと思う真髄だと思った。

飾る、と言うと 見栄を張る、といった意味を含むこともあるのだけれど、彼の言う飾るは背伸びはしていない。とても自然な、生きる上での愛すると同じくらいの次元に飾るを置く豊かさ。なんて美しい、と思う。

豊かさという言葉に思い至って数日後に、ノベンバ公式ブログ読んでいたら 身体と精神の豊かさ、という言葉を小林くんが書いていて驚いた。好きな人と同じ言葉で同じものを表す気持ちでいたというのは、とても素敵な体験。


ところで、わたしは小さい頃、病んでいること、不幸であることの方が美しいと言う価値観を持っていた(俗に言う「鬱くしい」だろうか。以後文中ではこの種の美を鬱くしさと呼びます)。健康で幸せであることは無知の象徴であり、そうである自分は格好悪いのだと思っていた(ある程度の年齢を過ぎたら、無知が故の幸せは実際美しくはないだろうけれど)。

一方でそれを受け入れきれてもいなかった(名付けて走幸性と呼びたい本能に逆らうのだから)。恐らくそれが理由で、村上春樹の本が好きになった。ノルウェーの森でみどりが病院で胡瓜を食べるシーンが好き。自分の鬱くしいフィルターが掛かっていたのかも知れないけど、直子は美しく描かれていたと思う。

村上春樹は病や不幸にある人々を美しく描くけれど、彼の作品の中には必ずそれと対比する健康で健全な人々というのが主人公含め登場し、(読者から見れば)美しい病んだ人は主人公にとっては障壁でしかない、と思う。だから村上春樹作品には惹かれる。


わたしは本当にART-SCHOOLというバンドが大好きだ。ノーベンバーズを知ったのもART経由。

アートも鬱くしさに惹かれ、焦がれ、自分はどこまでも普通で、だけど健康で健全にもなれなくて…というジレンマを感じる(ある一瞬は自分自身もとても美しかった記憶があるけど、それは鬱くしさに食われてしまった、自分は鬱くしさの構成要素には成り得なかった、という感覚)。

だからLost in the airの「ただ生きたくて」の連呼が胸に刺さる。


実は鬱くしさに惹かれるって、そんなにマイナーではないと思っています。鬱くしさは実は不幸でありながら自己陶酔を孕むので、一つの閉じた幸せの形ではあるとも思う。BUMPのハンマーソングと痛みの塔とか、少し近いものがある。ミュンヒハウゼン症候群の心理とか。


自分自身、鬱くしさへの憧れVSそんなに痛くて辛いのは嫌だと思う凡庸で健全な自分 という闘いをずっとしてきて けれどノベンバの教会ライブを観て 健康で健全な耽美 というものの存在を理解したし それこそが美、そう生きたい、そう生きるのが自分にとって正しい、という確信を得た。論理的には説明できないけれど。

なぜかライブを観ていて心に浮かんだのが、幸せになる努力をすることは美しい、と言う気持ちだった。

彼らの美しさをこういう風に理解できた自分は誇らしいし好きだと思えるので、本当に良い経験だった。

価値観が変わったというか、自縄自縛だったものを素直に、自信を持って解放出来た。


美って、至上の価値の一つだと思うんです。

ただ綺麗な色や形のことではなくて、目に見える表面的な美しさではなくて。


美しさも幸せも、自助努力。少なくとも自分の置かれている環境下では。

ずばり今の心境をアートが約二十年前に歌っていました。


美しく生きたいって願う

(♪): エイジオブイノセンス/ART-SCHOOL